ニュースレター(2013年夏)

〔p.1〕

主の潔白の子どもの皆さまへ

皆さまもご存じのとおり、大聖ゲルトルーディス(ガートルード)は、私たちの守護の聖人の四人のうちの一人です。(訳注:あとの三人は聖ベネディクト、アシジの聖フランシスコ、パドヴァの聖アントニオです。)聖ゲルドルーディスと幼きイエズス様との交わりを記した本がありましたので、ご紹介したいと思います。この小さな本のタイトルは『大聖ゲルトルーディス‐神の愛の先駆者』(タン・ブックス出版)です。

「子どもたちが母親に対してそうであるように、全てにおいてゲルトルーディスはイエズスに寄り頼みました。彼女の目には、取るに足らなすぎてイエズスにお委ねしないことなど皆無だったのです。ある時ゲルトルーディスは麦わらの中に針を落としてしまったので、イエズス様が探し出してくださるようにと願いました。『おお、愛するイエズス様、私がこの針をいたずらに探しても、時ばかりが無駄に過ぎ行くことでしょう。どうかあなたご自身が、私のために針をお探しくださいますようお願いいたします。』彼女は片方の手を伸ばし顔をそむけると、すぐさま自分の指の間に針を見いだしました。イエズス様は、ご自分にとって愛おしい彼女のこの信頼を励ますために、度々このようなことをなさいました。

ゲルトルーディスはある時こうお尋ねしました。『ああ、イエズス様、私はこの祈りに何を加えれば、より実りある祈りとすることができましょうか。』甘美さに満ちた面持ちで、我らの救い主は聖ゲルトルーディスお応えになりました。信頼のみが、容易にすべてを勝ち取るのです!ある時、聖ゲルトルーディスは数々の誘惑に悩まされて、神のお導きを願いました。あふれんばかりのあわれみをもってイエズス様はこう仰せられました。人間的誘惑に悩まされても、すぐさま私のもとに駆け寄り、固い信頼をもって私の保護を願う者に、私はこう言いましょう。『あなたは私の小鳩、何千の者たちの中から選ばれ、私の心をその眼差しで射抜いた者。』その信頼は私の心に深い傷を負わせ、私がその霊魂をなぐさめてやらなければ、私自身の心が悲しみに満ち、天のあらゆる喜びもそれを和らげる(慰める)ことができないのです。幼きイエズス様は続けて仰せられます。『まことに私が力と知恵と善さをもって霊魂をあらゆる悲惨な状況において忠実に助けるのだという信頼は、私の心を射抜く矢であり、私の愛の心を痛めつけて、私が彼女を置き去りにできないようにさせてしまうのです。』」

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マザー・パトリシャより

〔p.8〕

私的啓示について

主の潔白のメッセージを読み、他の人とも分かち合おうとされた皆さまの多くが、私的啓示に対する無関心や偏見を経験されていることと思います。潔白会のメンバーの一人が最近、インターネットで次のような記事を見つけたと教えてくれました。それは私的啓示というカリスマ(賜物)についてのバランスのとれた見方を示しており、率直に言って、さわやかな風をもたらしてくれるものでした。私が特に良いと思ったのは、私たちが私的啓示と位置づけるものについて、よく考えさせる記事であったところです。公的啓示と私的啓示の明確な区別は、私的啓示の批評家たちが言うほど単純ではないのです。この批評家たちは、教会における私的啓示の役割を低め、価値を減らそうとさえしているように見えます。それは様々な形での体験としてとらえることができるかもしれませんが、「源泉」は一つ、聖霊なのです。以下は、「ヴォックス・ドミニ(神の声)」というウェブサイトwww.voxdomini.pl/obce/ang/emotions.htmのミカエル・カゾフスキー博士の記事からの抜粋です。

インターネット環境をお持ちの方は、是非、全記事を一読されることを強くおすすめします。


教会にとっての私的啓示の重要性

私的啓示とは実際には何であるのか

・・・・・神がいわゆる公的啓示をお与えになった方法と、私的啓示が伝達された方法を比較すると、「私的啓示」の意味を定義する試みは、さらに複雑になります。どちらの啓示も、神がご自分の道具としてお選びになった個人の体験を基盤としています。このようにして、まず神は「個人的に」ご自分を表されました。例えば、アブラハム、モーゼ、預言者イザヤ、エレミヤにご自分を示され、一人ひとりに対して、神の恵みをもって触れられました。ダマスコ近くで聖パウロに現れた際にも、同様になさいました。ここにあげた個々人が、自分の超自然的体験を他の人にも伝え、生ける神の証し人となったのです。・・・・・

このように、「公的啓示」の伝達方法は「私的啓示」の伝達方法とさして変わるところがありませんでした。どちらもその源(みなもと)は同じです。すなわち、超自然的現実における神の個人的体験なのです。どちらも初めは、ある意味で『私的』なものです。教会が、霊感によって書かれた新旧約聖書の聖典を定めるにあたり、神とその真理の体験のうちどの記録が「公的啓示」を伝達しているかを定義したのです。・・・・・

啓示‐教会を富ませる賜物

一般に受け入れられている意見はありますが、「私的啓示」は様々な形で教会に奉仕しています。それは教会を富ませているので、その信者個人だけに与えられたと見ることはできません。教会においては、「個人的」恵みとしてただ一人が利用するためだけに与えられる恵みはありません。聖パウロは、キリストの体としての教会という教えを示す際に、これをはっきりと私たちに教えています。聖パウロは、ただ一人のためだけに与えられ、キリストの体全体である教会が益することのない恵みはないと述べています。・・・・・

ヴァチカン第二公会議は、あらゆる賜物によって教会全体が豊かになるという教えを再確認しています。それによると、他にもまして聖霊が、「教会をあらゆる真理と、共同体と奉仕における一致に導くにあたり、様々な階層的・カリスマ的賜物を与え、それらの賜物をもって方向性を示し、教会を聖霊の実で飾る」(CC4)ことを述べています。

ですから、あらゆる賜物と恵みは、例外なし教会に必要なものなのです。それらは教会を教化し、新たにします。同じことが「私的啓示」にも言えます。私的啓示も、神のとられる行動を明らかにするものの一つだからです。それは全教会を益するためのものであり、早々に拒絶されるべきではありません。 

「私的啓示」は一体どのようにして全教会の益となるのでしょうか。人生における神の介入の一つ一つは、人の贖いを望む神の愛から来るものであり、それは人が健全であるように、人が贖われるようにという神の暖かな思いをもって行われます。このようにして「私的啓示」は、それを受ける人の聖化の助けとなり、その人を神との親密な交わりへ、そして、まことの信仰と愛へと招きます。

個々人の善良さと聖性は、キリストの神秘体である教会全体を輝き照らします。「私的啓示」を体験する人は、霊的に活発になるよう回心してゆくはずです。そして、この回心と聖性、使徒職によって、全教会と世界を聖化するのです。この良い例が聖パウロです。彼はダマスコの近くで、それまでは自分が迫害していたイエズスのヴィジョンを見て、回心しました。このたぐいまれなる体験がサウロを回心させ、その結果、教会に実りある働きを、彼にさせることとなったのです。・・・・・

キリストにおいてすでに啓示の充満が与えられているのに、何故、「私的啓示」が必要なのか

教会が教えているように、キリストが私たちに啓示の充満をもたらしてくださいました。これはまさにその通りであり、人となられた神ご自身以上に私たちは何を受け取ることができるというのでしょうか。キリストによって知らされたもの以上に、いかに小さな真理も、誰も加えることはできません。そうであれは、「私的啓示」の意味は何なのでしょうか。私たちにはすでに、人であり神であられるキリストのうちに、完全な啓示が与えられていますが、私たちはそれを、まだ完全には理解していません。私たちはそれをまだ、十分に自分のものとして吸収していないのです。それはまるで、私たちが全てのことが書かれている本を受け取ったけれども、内容があまりにも膨大で、それを完全に読み切ることも、そのことについて十分に考えることも、あるいは、自分のものとして吸収することもできていないような状況なのです。

イエズスにおいて啓示の充満を受け取っている私たちですが、その内容を十分に理解するためには、私たちには何らかの助けが必要です。この助けとは、聖霊です。イエズスは、聖霊は明らかにされた真理を私たちに思い出させてくれる、そして、その真理の意味を完全に理解させ、将来に起こることを私たちに明らかにしてくれる、と仰せられました。・・・・・

「しかし、真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面であなた方を導いてくださる。その方は自分勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、起ころうとしていることを、あなた方に告げてくださるからである。」(ヨハネ16:13)。・・・・・

聖霊は、教会でご自分のわざをこれまで続けてこられ、また、様々なかたちで続けていかれます。聖霊は、啓示された真理を私たちに思い出させ、真理のさらなる深みへと私たちを導きます。また、教皇や司教団への教え、バチカン公会議やシノドスの宣言、あるいは教会の全ての信者への照らしによって(つまりは「信仰の感覚(sense of faith)」によって)、起ころうとしていることを明らかにします。聖霊はまた、神学者の著述、説教の言葉、会議での発言によっても(彼らが聖霊の照らしと導きに従順である限りにおいて)、ご自分のわざを成し遂げられます。

聖霊はまた、思い出させ、真理に導き、起ころうとしていることを知らせるという、教会におけるご自分のわざを、預言のカリスマによって継続されます。この賜物は、私たちを神の証し人とさせ、神の真理と愛とを宣言させ、また、私たちが創造主への忠実な愛を示すよう招きます。

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この「忘れられた」預言の賜物は、様々なかたちで、思っている以上に頻繁に与えられています。それは、最も一般的なかたちとして、すでに啓示されている真理を理解するための内的照らしとして与えられます。例えば、聖書のある部分を理解するために、さまざまなかたちがありますが、聖書講座、重要な議論の際、あるいは説教などにおいて、この照らしは与えられます。そのような場で、聖霊はご自分の活動を、突如とした内的照らしによって明らかにされます。聖霊がこのようにされるのは、見出された真理が他の人とも分かち合われるためです。聖霊はその真理が他の人の救いのためにも必要であるとご存じだからです。

より稀(まれ)な預言のかたちとして、「私的啓示」によるものがあります。私的啓示によっても、聖霊は真理を思い出させ、私たちをそれに向かわせ、起ころうとしていることを明らかにします。・・・・・

預言の賜物が「私的啓示」として現れることは、私たちの救いの追加的助けとなります。この私的啓示は神から与えられたものであり、聖書を読むことに何の支障も与えないばかりか、かえって、私たちが聖書を読み、み言葉を黙想し、より良く理解するために与えられているのです。聖書を読むことから私たちを遠ざけるのであれば、その啓示は本物ではありません。本物は、神のみ言葉への欲求を増すはずです。

また、本物の啓示は、(それは預言の賜物の一つの形態)は、私たちの救い主によって建てられた教会の役割をおびやかすものでもなく、また、教会教導権をおびやかすものでもありません。「私的啓示」の必要性を疑う人々も、説教や会議、黙想会、あるいは神学者の書いた本が役立つものであることをもちろん認めるでしょう。例え啓示は一つ(聖書)であり、教会教導権があるとしても、そうでしょう。・・・・・

信じる人は、公的啓示か「私的啓示」のどちらかだけを選ばなければならいない、ということはないでしょう。聖書と聖伝の両方を受け入れ、また、教会教導権と神学の両方を受け入れることができるのと同じです。一つのものが他のものと相互に調和しているのであれば、それは相互に補完し合っているのであり、両者を対立させることはできません。なぜなら、それらの源は一(いつ)なる聖霊だからです。・・・・・1コリント12:4-7

私たちは「私的啓示」を受け入れなければならないのか

上の質問に答えるためには、ある具体的な「私的啓示」の超自然性と、そこに示されたメッセージの内容の区別をすることが正しいやり方と思われます。例えば、ある人が救われるためには、例え超自然的なものを受け入れないとしても、キリストの望みに従って生きていれば十分です。例えば、ルルドで起きていることを受け入れなくても、そうです。教会は、信者が「私的啓示」の超自然性を受け入れるよう強要はしません。

しかしながら、様々な「私的啓示」のメッセージに対する態度となると話は別です。ある啓示が、キリストによって明らかにされ、教会によって宣言されている真理を思い出させるのであれば、また、回心と神への回帰を促すのであれば、あるいは、私たちを愛によって生き、教皇と固く結ばれているよう招いているのであれば、そのようなメッセージ(訳注:メッセージの内容)は、否定すべきではありません。このような私的啓示を捨て去ることには、その人の悪意と、回心への拒絶が感じられます。同様に、説教の内容に対する否定的態度には、その人が心を閉ざしていることが感じられます。そこには、説教をする司祭に対してのみならず、聖書の教え、そして、ご自分との友情に招き、ご自分のお望みのままに生きるよう招いておられる神ご自身に対する拒絶の念が感じられます。ある人が、「私的啓示」に示されている回心への招きを拒絶するのであれば、それは自分自身の救いを軽く見ていることになります。なぜなら、その人は、聖書に見出される招きも、教会の最も公式な教えも、神からのあらゆる招きに心を閉ざしたことになるからです。・・・・・

ですから、例えばルルドやファティマで実際に聖母がお現れになったことを疑問視する人でも、神の掟(十戒)に従って生きる努力を継続している人は、救われることができます。しかし、回心へのどんな呼びかけにも、全く気をとめない人が救われ得るかは疑問です。・・・・・

私的啓示についての注意点

教会は、「私的啓示」に対して大変注意深い態度をとっており、また、そうするべきである、ということが度々聞かれます。この格言のもとに多くの「私的啓示」は、あらかじめはじき出されています。たいていの場合には、内容を適切に調べることもなく、あるいは、それがもたらす実りを考えることもなく、そうしています。・・・・・

注意の必要性を喚起する人々の間には、ある種の「偏見」が見られます。これはどういう意味でしょうか。間違える可能性を恐れて、また、本物の啓示ではないことを恐れて、あるいは、預言者が誤っていることを恐れて、目にする様々な啓示を、聖霊の御助けによって識別することもなく、キリストの望まれる実りがあるかどうか調べることもなく、あらかじめ拒絶してしまうのです。それで、様々な私的啓示は役に立たないものとみなされたり、あるいは、はっきりと有害であるとの扱いさえ受けるのです。間違う可能性があるが故の、この「用心深さ」のために、本物の啓示をつぶしてしまう可能性は、完全に無視されています。本物の啓示は聖霊のわざであり、多くの人の救いの恵みの源となるものです。

警戒は常に必要ですが、それは二つの方向でなされるべきです。一方では、誤謬、あるいは公的啓示や聖書の教え、聖伝、教導権などと一致しない教えを広めないための注意が必要です。他方、その用心には、聖霊のわざである神のまことの御声(それは教会に与えられたまことの恵み)を拒絶しないという配慮が必要です。なぜなら、神が話され、話し続けておられるというのであれば、人は跪いて耳を傾け、生活を改めるべきだからです。「神が過去にすでに話されたのであれば、なぜまた話しておられるのか。」などと言って責め立てるべきではないのです。・・・・・

偽(にせ)預言書への警告

・・・・・偽預言者に警戒しなさいという人々は、様々な「私的啓示」のことや、そのような啓示を自分が受けていると思い込んでいる人たちのことを考えている場合が多いものです。しかしながら、これまでの教会の歴史の中で数多くの異端が現れており、それは実際に「私的啓示」の結果であったのか、あるいは神学者個人の考えに完全に基づいた、神学者自身のつくり物だったのかと自問してみることができるでしょう。また、今日、教会内に広まってしまった、キリストの教えからの逸脱(例えば、教皇の権威への疑問、和解の秘跡の否定、聖体礼拝の否定、永遠のいけにえである聖体の否定、神の母への信心の衰退、等々)の源は、「私的啓示」であるのか、あるいは、これらの「私的啓示」は、このような逸脱を明らかにして、教会の本物の伝統に立ち返るよう招いているのか、問うてみることもできるでしょう。・・・・・

〔p.16〕

2012年8月17日

マリア:「国土の上に十字架のしるし」の行進が行われた国には、大いなる保護が与えられました。あなた方のつぐないに感謝します。私からの母性的祝福を与えましょう。

1993年4月24日

パトリシャ:親愛なる主よ、私はこの恵みをどれほど他の人たちと分かち合いたいと思ってきたことでしょう。しかし、多くの人が去りました。ある人は怖れのため、ある人は無関心のためでした。また、理解できない人たちもいました。私は、子どもたちを手の届かぬところに失った母親の気持ちです。この内的傷はいつも痛み、一致と平和と愛による和解を切望しています。

イエズス:私の子よ、あなたは天の御母の神秘的御傷と傷ついたみ心に引き寄せられているのです。秘められたる神秘の御傷の聖母が、私を拒絶する霊魂のために、母の愛をもって私を見つめるだけで、私は御母の優しい母としての苦悩と沈黙の嘆願を拒むことはできないのです。子どもたちのために嘆き懇願する母親たちは、私をまったく無力にさせ、大河のようにあわれみを溢れ出させます。人は自由意志でダム(堰)を造り、恵みを妨げます。あなた方の天の御母、そしてすべての母親の涙と祈りが、ダムを貫通する恵みを引き出し

ます。

悲しいかな、霊魂たちはすぐにこのダムを再建してしまいます!


著作権:パトリシャ・デ・メネツィズ & 主の潔白の家族(試訳)

©Copyright The Family of Divine Innocence 2013 ©Copyright Patricia de Menezes 2013

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